デマと差別と狂信者

2011/04/12 11:54 | 0 Comments

「福島県民お断り」入店・宿泊、風評被害相次ぐだそうである。本当に酷い話だ。先日の「プルトニウム検出」のニュースに対する反応を見たときから、いわゆる「ホーシャノー」というのは現代版の「穢れ(けがれ)」なのではないかと感じていた。「放射線と放射能と放射性物質はちゃんと区別しろよ」とかそんなどころのレベルではない。

●「穢れ」感情のどこが悪いのか

「穢れ」というのは仏教や神道の用語で、いわゆる「不浄」な状態のことだ(この「穢れ」を払う行為が、いわゆるヤクザとか政治家の世界で言うところの「禊ぎ(みそぎ)」になる)。当然穢れは望ましい状態ではなく、穢れているとされた人たちは、忌み嫌われ、差別される。江戸時代などに存在した被差別階級の「えた・ひにん」の「えた」は「穢多」、穢れ多きものと書く。「穢多」と呼ばれたのは、主に動物の死体処理や皮革加工をする人たちだった。差別する側の言い分としては、「死」は穢れであるから、死体を触ることを生業とする人々は「穢れた人間である」というようなことだったのだろう。別に動物の死体に触ったからといって、人間として何が変わるわけでもないのに関わらず、である。

ここで問題なのは、客観的な根拠もなく、恣意的基準や単なる皮膚感覚だけで「自分たちはこっち側」「彼らはあっち側」と線引きをする態度である。差別を正当化するために、勝手な理屈をでっち上げているだけなのだ。

●プルトニウムで人類滅亡?

そもそも放射線は少しでも触れたら死ぬ、あるいは癌になるというようなものではない。「どれくらいの量を浴びたか」という定量的な話でしかない。だから政府発表でも何でも、何マイクロシーベルト毎時とか、何ベクレルとか、数値の話が必ずついて回るわけである。触れたらエンガチョとか、食べたらガンになるとか、そういうレベルの認識では困るのだ。

先日の「プルトニウム検出」のニュースがあったけど、放射性のヨウ素やセシウムだけでなく、たとえプルトニウムであっても大切なのは具体的な量であり濃度である。そもそも我々は普段からプルトニウムに囲まれて生活している。微量だから気にしなくて済んでいるだけである。(それについてはこの辺りの記事がソースつきで分かりやすいだろう。)

厚労省から放射能汚染された食品の取り扱いについての発表があったとき「世界で初めてプルトニウムの添加食品を政府が認可!」とか言って厚労省を罵っているのをよく見かけた。しかし、IAEAやWHO、FAOが共同で発表した文書にも、Pu239の基準値が含まれている(46ページ)。結局は量、濃度の問題でしかないのは当たり前の話で、世界初でもなんでもない。

それにも関わらず「プルトニウム検出!」というだけで大騒ぎしている人たちを見ていると、まるで「我々はプルトニウムなどという穢れとは無縁のクリーンな生活をしていたのに、そんな汚れを我々の生活に持ち込むとは!」とでも言わんばかりである。皮革加工業者を「穢れている」と言って差別する態度と、いったいどこが違うというのか。

●「原発がどんなものか知って欲しい」という無差別テロ

こういった「ホーシャノー」への盲目的な恐れが、今回の入店拒否や宿泊拒否という事態の一因だ。本来であれば、放射線医学についての知識を広めて、「みんなが正しく放射線を恐れることができるようになること」を目指すべきだろう。だが、熱心にデマをばらまく狂信者もいたりして、これが非常に問題だと思う。

たとえば、「原発がどんなものか知って欲しい」とかいう有名な反原発文書がある(リンクするのもイヤなので読みたい人は検索してください)。未だに「涙なしには読めませんでした」とか「内部関係者による貴重な告発」とかいうトンチンカンな感想と一緒にリンクをばらまいている人がいるので頭が痛い。この文書内容の真偽についてはいろいろ言われているが、ここでは一言一句について検証するつもりはない。
ここで問題とするのは「悪質なデマを使って印象操作をしようとしている」という一点だけである。たとえば次のような箇所だ。

冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。

今回の事故で周知されたと思うけど、放射線や放射性物質が漏れていたら、それを隠蔽することはまず不可能だ。現に首都圏での放射線濃度の測定結果を見ても、今回の事故で放射性物質がばらまかれてしまったことはバレバレである。魚だって同じで、捕まえて測定すれば「安心して食べられるかどうか」はすぐに分かってしまう。

だから「政府や電力会社は隠蔽しているが、原発は大気中や海にホーシャノーをばらまいているのだ!」というなら、それを測定すればいいのである。問題のある数値が計測できなかったのであれば、少なくとも平常運転時においては放射性物質は放出されていなかったと考えるのが自然だ。(ちなみに放射線の測定器は割と簡単に手に入るそうなので、我こそは電力会社の隠蔽を暴いてくれよう、という勇者はぜひお買い求めいただきたい。)

そして「原発の被害者例」として、次のような箇所がある。

数年前の石川県の志賀原発の差止め裁判の報告会で、八十歳近い行商をしているおばあさんが、こんな話をしました。「私はいままで原発のことを知らなかった。今日、昆布とわかめをお得意さんに持っていったら、そこの若奥さんに「悪いけどもう買えないよ、今日で終わりね、志賀原発が運転に入ったから」って言われた。原発のことは何も分からないけど、初めて実感として原発のことが分かった。どうしたらいいのか」って途方にくれていました。

あるいは次のような箇所もある。
ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。

実際には悪影響となるような量の放射性物質はばらまかれていなかったにも関わらず、風評被害で海産物が売れなくなったり、婚約を一方的に解消されたのだとしたら、その原因を作ったのはむしろ根拠のないデマをばらまいている人たちではないのか。この文書に書かれている「被害者例」が本当かどうかは知らないが、少なくとも放射線被爆者に対するいわれのない差別は現実に起こってしまっている。

この文書のように「自分たちの政治信条を押し通すために、恐怖を煽るようなデマを喧伝して差別を助長する」というやり方は、「坊主憎けりゃ」が行き過ぎて、袈裟どころか隣町ごと寺を焼き払おうとするようなものだ。ただの無差別テロと言っていい。「福島県民お断り」とかいうとんでもない事態を起きたことについて、狂信的な無差別テロリストたちはどう思っているのだろうか。

●エネルギー問題を論じる人たちへのお願い

原発が危険なものであることは確かだし、ないに越したことはないのも確かだ。でも、だからと言って「原発を止めるためであれば、差別を誘発するような悪質なデマをばらまいていい」ということには断じてならない。もし「我々は正しい意志と正しい目的を持っているのだから、手段の善悪は問われない」とでも思っているのなら、それはカルト宗教でしかない。どんな主張をするにしても、やり方ってものがあるはずだ。

今後エネルギー問題は関心を集めるだろうし、原発についてもいろいろな議論が必要になる。その際に、別に「今すぐ全国の原発をすべて止めろ」だろうが「男は黙って原子力」だろうが、どんな主張をするのも個人の自由である。ただし、いわれのない差別を助長するデマを流すことは絶対に許されない。

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