「枝野さんは大丈夫だって言ってたじゃないか」問題について

2011/03/28 11:47 | 0 Comments

最近「ただちに影響のあるレベルではない」という言い回しがいろいろなところで批判されているようだ。テレビやらネットやらで、政府の発表をちょいちょい見ているけど、個人的な感想としては「慎重すぎて何も言ってないのと同じ」という場合はあっても、「ウソをついている」ことはなかったと感じた。「慎重すぎる」ということについても、これだけ不確定な要素が多い中では、誠実な態度ではあったと思う。

そんな中、こんなコピペをいろいろなところで見かけた。

「大丈夫?」っていうと、
「大丈夫」っていう。

「漏れてない?」っていうと、
「漏れてない」っていう。

「安全?」っていうと、
「安全」っていう。

そうして、あとでこわくなって、

「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと、
「ちょっと漏れてる」っていう。

こだまでしょうか。
いいえ、枝野です。

まあただのジョークだろうとは思うけど、これが風刺として成り立っているというのはなかなか面白いなと思った。政府発表では、別に「大丈夫」とも「安全」とも、一言も言ってないはずだからだ。この範囲では大丈夫、とか現時点では安全、というような言い方しかしていない。

こういうのを見ていると、一対多のコミュニケーションって本当に難しいなと思う。難しさの原因としては、特に「情報の受け手にかかるコスト」という問題が一番大きそうだ。

●情報の処理とステレオタイプ

そもそも、こういう政府発表などに限らず、外部からの情報を受け取って、何らかの判断をするためにはそれなりのコストが必要になる。毎日の生活の中では、大小さまざまな判断をしないといけない。そこで、そのコストを節約するためには「ステレオタイプ」や「固定観念」がフル活用されることになる。「ステレオタイプ」というと差別とか偏見みたいに扱われることが多いけど、ステレオタイプ自体には罪はなくて、「客観的な理由のないステレオタイプ」であったり「特定の集団を不幸にするだけのステレオタイプ」がダメだ、というだけなのだ。

たとえばスーパーでお菓子を買ったとしても、それに毒が入っていて食べたら死ぬ、という可能性はゼロではない。実際、過去にはそんな事件もあった。でも、だからといって食べ物を買うたびにその辺の野良犬に毒味させてから…などと言っていたら、いつまでたってもまともな食事なんてできない。だからほとんどの人は、スーパーで買った食品を食べるときは何も考えない。スーパーで売っている食品には毒は入っていない、というように「決めつけて」生活しているわけだ。

現実問題としては、時間やお金などのさまざまな制約のため、さまざまなステレオタイプを駆使して生活していかざるを得ない。でも、それはあくまで仕方のなく使う「便法」であって、本来の「その都度判断を行う」という高コストな情報処理方法がまったく要らなくなるわけではない。

●情報のいろいろな受け取り方

一対多のコミュニケーションでは、メッセージを受け取る際にもさまざまなコストが発生する。

受け手に取って最も低コストなのは、「単純明快な結論を鵜呑みにする」という受け取り方だ。何も考える必要はなく、意志決定さえも発信者に任せる。道を歩いていて「この先行き止まり」と書かれていたら引き返す、というようなやり方だ。

それに対して、「結論を保留する」あるいは「すっきりしない結論を受け入れる」というやり方はかなりエネルギーがいる。特に「保留」の方はずっと続けていく必要があるため、かなりしんどい。トイレに行くのを我慢するみたいなもので、「安易な結論に飛びつきたくなるのをぐっと我慢する」ためにはかなりのエネルギーを使い続ける必要がある。

●賞味期限は信用できるか

メッセージの受け手が大勢いて、かつ個別の判断を少し間違えてもたいした問題にならない場合には、発信者側が敢えて情報を単純化して「伝える」という工夫をすることが多い。単純化というのは、要するに「細部をバッサリ切り捨てる」ということだ。たとえば食品の賞味期限なんかはその最たるものだろう。「賞味期限は3/20です」と書いてあったとしても、3/21の0時0分になった瞬間に、突然その食品が変質するわけではない。3/21なら大抵食べられるだろうし、保存状態がよければもっと持つかもしれない。食べる人によっても違っていて、お腹を壊す人も居れば平気な人もいるかもしれない。「ある食品について、それがいつまで食べられるのか」という程度の問題であっても、正確さを期すなら単純明快な結論なんて得られっこないのである。それでは面倒なので「賞味期限は3/20です!」というように、単純明快な基準を示すようなやり方になっているわけだ。でもやはり細部をバッサリ切り捨てているという意味では、ウソとは言わないまでも、不正確な情報であることには変わりがない。

●「正確な情報」は面倒くさい

逆に、判断に必要な材料が発信者にとっても不十分で、かつそのメッセージの影響が大きい場面では、そういった不正確な単純化は許されない。現在の放射線関係の話がまさにそれだ。できる限り詳細な数値を出すが、安易な結論は出さない。というか、情報が不足しているためそもそも出せないのだ。たとえば「東京は安全なのか?」という質問も、原発事故の処理がどう進展するかによって答えは変わってくる。「今後もずっと大丈夫なのか」という質問に答えられる材料はないし、だからといって「今すぐ逃げ出さないといけないレベルか」といえばそれも違う。だから「今のところは問題ないよ」という回答をせざるを得なくなる。こういうメッセージの出し方は、「細部バッサリ」に比べれば、受け手のコストが上がってしまうんだけど、でも発信者が不正確な情報を出すわけにはいかない以上、そのコストは受け手が負担するしかない。

さらに今回の場合は、出てくる用語が専門的ということも受け手のコストを上げる原因になっているように感じる。「放射性物質」とか「マイクロシーベルト毎時」とか、普段の生活ではまったく出てこない。難しい用語は使わないに越したことはないが、それでもやはり使わないわけにもいかない。(この辺については以前「頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題について(続き)で書いた。)

●願望による情報のフィルタリング

さっき「ステレオタイプが必要なのは、時間だと資源だとかのさまざまな現実的な制約のため」と書いたが、「情報を受け取る」という場合では、受け手の「脳みそのコスト」「心のコスト」みたいものの割合もかなり大きい。特に地震やら物不足やらが続き、不安な毎日が続くと、脳みそや心の方が消耗してしまって、どこかに落ち着きどころを求めたがるようになる。

そんな中で「受け手のコストが高いメッセージ」を送られるのは、受け手としては辛い状態だ。そこで、受け取りコストを下げつつ、恐怖や不安を和らげるために「願望フィルタ」とでも言うべきものを通して、自分に都合良く、単純化して情報を受け取り始めたりしてしまう。それはそれで仕方のないことなんだけども、発信者にもこういう状況では「細部バッサリ」をやるわけにはいかない以上、受け手にもがんばってもらうしかない。だから「結論を保留する」とか「はい・いいえとか安全・危険というような二元論に陥らない」という態度で情報を受け取ることは、今みたいな状況が続く以上は意識的に続けていくしかなさそうだ。

もうひとつ原発ネタ書いた→デマと差別と狂信者

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